日本の皇位は世界に類を見ない「万世一系」として続いてきました。その根幹をなすのが 男系男子による継承 です。
この原則は、道鏡事件以降、伝統として揺るがずに守られてきましたが、近代国家の成立期に初めて法律として明文化されました。
本記事では、その流れを整理し、なぜ明治時代に法制化が必要とされたのかを考えます。
道鏡事件以降の伝統
奈良時代の「道鏡事件」(769年)は、日本の皇統のあり方を根本から問い直す出来事でした。
僧侶・道鏡を天皇に就けようとする動きに対し、宇佐八幡宮の神託はこう告げました。
「天皇の位は、必ず天照大神の皇統に連なる男子が継ぐべきである」
これ以降、皇位は 男系男子 が継ぐべきものと明確に意識され、慣習として絶対の原則となりました。法
に明記されてはいませんでしたが、この伝統は千年以上にわたって揺るぐことなく守られました。
皇室典範(1889年)による法制化
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の公布と同時に 旧皇室典範 が制定されました。ここで初めて、皇位継承の資格が明文化されます。
第1条:「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
第2条:「皇位ハ皇長子孫之ヲ継承ス」
第3条:「皇位継承ハ男系ニ依リ嫡出ノ男子之ヲ継承ス」
特に第3条によって、男系男子に限定する原則が初めて法律として規定 されたのです。
現行皇室典範(1947年)
第二次世界大戦後、日本国憲法の下で新たに制定された現行皇室典範(1947年)でも、継承原則は維持されました。
第1条:「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」
戦前・戦後を通じて、「男系男子継承」は変わらずに法的に位置づけられています。
なぜ明治時代に法制化が必要だったのか
では、なぜ明治政府は千年以上守られてきた伝統を、わざわざ法律に書き込んだのでしょうか。背景には以下の要素がありました。
① 近代国家建設と憲法体制
西欧列強と肩を並べるために、明治政府は「立憲国家」としての体制整備を進めました。憲法を定める以上、皇室制度も明文化しなければ国際的に通用しないと考えられました。
② 権力の正統性を法で裏づける必要
封建制から近代国家へ移行する中で、国内外に「天皇の権威は絶対であり、皇統は断絶の危機にさらされない」ということを示す必要がありました。法律で規定することにより、皇統の正統性が制度的に保障されることになったのです。
③ 西洋の王室制度との比較
当時、ヨーロッパの王室では男子優先やサリカ法典(女系排除)といった継承原則が整備されていました。日本も皇位継承の規範を国際社会に示すことで、近代国家としての信頼を高める狙いがありました。
まとめ
道鏡事件以降:男系男子継承は絶対の原則として伝統化された。
1889年(旧皇室典範):初めて法律に明記され、国際社会に向けて制度的に保証された。
1947年(現行皇室典範):戦後も変わらず「男系男子継承」の規定を維持。
法制化の背景:近代国家建設のための法整備、正統性の制度的保証、西洋王室との比較に対応するため。
つまり、男系男子による皇位継承は「伝統」として守られてきただけでなく、近代以降は「法」としても明文化され、日本の国体の根幹として二重に保証されてきたのです。

