第8回 誰がPFASを広めたのか?—デュポン・3Mと日本企業の連携の歴史

健康問題
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PFAS(有機フッ素化合物)は、いったい誰がつくり、誰が広め、どうして今もなお私たちの暮らしに入り込んでいるのか?

この問いに答えるには、アメリカの巨大企業「デュポン」と「3M」の存在、そしてそこに深く関わってきた日本企業たちの歴史をひもとく必要があります。

PFAS問題をただの「環境問題」として片づけるには、この“産業と責任の歴史”を知らなさすぎる。

今回は、その知られざる裏側を、できるだけ丁寧に追いかけてみたいと思います。

 

はじまりは1940年代—「夢の素材」の誕生

PFASの歴史は、今から80年ほど前、アメリカのデュポン社が偶然発見したフッ素樹脂「テフロン(PTFE)」にさかのぼります。

この物質は、水も油もはじき、熱にも薬品にも強く、「ノンスティック加工の奇跡」としてフライパンなどに応用され、大ヒット商品となりました。

一方、3M(スリーエム)は1950年代、衣類や家具の撥水・防汚加工に使う「スコッチガード」製品に、PFOS(ペルフルオロオクタンスルホン酸)を導入。

こちらもまた、便利で高機能な化学物質として世界中に広まりました。

つまり、デュポンが“テフロン(PFOA)”を、3Mが“スコッチガード(PFOS)”を広めた元凶なのです。

 

「知っていたのに隠していた」内部文書の存在

恐ろしいのは、これらの企業が1970年代の時点でPFASの有害性に気づいていたという事実です。

動物実験では、すでに肝臓肥大、発がん性、生殖異常が確認されていたにもかかわらず、彼らはそのデータを社内に封じ、政府にも報告せず、販売を続けていたのです。

後に裁判で公開された内部文書には、こうした事実が赤裸々に記されており、アメリカでは「環境犯罪」として数十億ドル規模の和解金が支払われました。

映画『ダーク・ウォーターズ』は、デュポン社の不正と闘った実在の弁護士ロブ・ビロットの物語であり、“企業が何をして、何をしなかったのか”を描いた貴重な記録でもあります。

 

なぜ企業名があまり報じられないのか?

ここまでの事実を聞くと、こう思う方もいるかもしれません。

「じゃあ、なぜもっとニュースにならないの?」
「なぜ企業の名前が出てこないの?」

これは、日本における報道と産業界の関係性の問題でもあります。

大手メディアの多くが、広告スポンサーとしてこれらの大企業を抱えており、環境問題や健康被害の報道に対して慎重になる傾向があるのは否定できません。

また、法制度上も、アメリカのようにスーパーファンド法や集団訴訟制度が整っていないため、企業の責任が問われにくく、賠償も発生しにくい構造になっているのです。

 

責任を問うということは「未来を守る」ということ

ここで大切なのは、「企業をたたく」ことが目的ではない、という点です。

本当に問うべきなのは、

なぜ危険を知りながら、情報が出されなかったのか
なぜ製品の中身が分からないまま売られていたのか
なぜ政府も自治体も、十分な調査と対策をしてこなかったのか

という、情報の透明性と責任の所在に関することです。

これまでの不作為をきちんと検証しなければ、同じような“静かな有害物質”が、これからも私たちの暮らしに入り込んでくるでしょう。

 

私たちができること

PFASを広めた企業の名前を知ることは、ただの知識ではなく、未来への選択につながります。

「フッ素加工」の商品を選ぶとき、その背景を知ったうえで選ぶ
製品の成分表示やメーカーの安全情報をチェックする
問題を隠すのではなく、向き合う企業を応援する
自治体や国に、調査や法整備を求める声を届ける

私たち一人ひとりの選択が、「これからの10年」を変える力になるはずです。

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