奈良時代の後半、日本史上まれに見る「皇統の危機」がありました。僧侶・道鏡が天皇の座を狙い、もし成功していれば、万世一系の男系男子継承の原則が断絶していた可能性があったのです。
この事件こそ「道鏡事件」と呼ばれる出来事であり、後に和気清麻呂の忠義と宇佐八幡の神託が、皇統を守った象徴として語り継がれます。
道鏡の人物像と時代背景
道鏡(700年頃~772年)は、河内国(現在の大阪府八尾市)の下級豪族の家に生まれました。
若くして出家し、戒律を重んじる僧として知られるようになります。当時の奈良は「仏教国家」とも呼ばれるほど、国家と仏教が密接に結びついていました。
とりわけ聖武天皇・光明皇后の時代には、大仏造立に象徴されるように「国家を仏法で守る」という思想が前面に押し出され、僧侶の存在感は非常に大きなものでした。
こうした時代状況の中で、道鏡は宮廷に接近し、やがて孝謙天皇(のちの称徳天皇)の信任を得て、政治の中枢に食い込むことになります。
称徳天皇と道鏡の特別な関係
孝謙天皇(在位:749〜758)は、一度譲位した後、再び称徳天皇(764〜770)として即位しました。その間に、弓削道鏡は頭角を現します。
称徳天皇は独身で生涯を過ごした女帝であり、彼女の孤独と不安を支えたのが道鏡だったと考えられています。
病に倒れた際に道鏡の祈祷で快癒したことが決定的なきっかけとなり、称徳は道鏡を絶大に信頼するようになりました。
以後、道鏡は「法王」という破格の地位に上り詰めます。これは僧侶の最高位を超え、政治的にも宗教的にも天皇に匹敵する権威を与えられたことを意味しました。
言い換えれば、僧侶が「もう一人の天皇」のように扱われる前代未聞の状況が生まれたのです。
宇佐八幡の神託と「皇位簒奪」の試み
道鏡の権勢が頂点に達した769年、衝撃的な出来事が起こります。九州の宇佐八幡宮(八幡神=応神天皇を神格化した存在)から、「道鏡を皇位につければ天下は平和になる」という神託が伝えられたのです。
宇佐八幡は皇室の守護神とされる特別な神社であり、その神託は国家的な権威を持ちます。これを利用すれば、道鏡は僧侶でありながら天皇の座に就く大義名分を得られるはずでした。
しかし、ここで重要なのは、この神託が本当に正しいものだったのかという点です。称徳天皇は真偽を確かめるため、和気清麻呂を宇佐に派遣しました。
和気清麻呂の決断
清麻呂が宇佐八幡で受けた神託は、先に伝えられたものとはまったく異なるものでした。
「天皇の位は、必ず天照大神の子孫たる皇統の男子が継ぐべきである。それを道鏡に譲ることは、国を滅ぼすことになる。」
これは明確に「男系男子継承の原則」を再確認した神託でした。
清麻呂は、この神託をそのまま奏上しました。もし彼が恐れて事実を歪めていたなら、日本の皇統はこの時点で断絶していたかもしれません。つまり清麻呂の忠義と勇気が、日本の国体を救ったのです。
道鏡の失脚と皇統の継続
この神託によって、道鏡の野望は完全に打ち砕かれました。称徳天皇の崩御後、皇位は天智天皇の孫である光仁天皇(白壁王)に継がれます。正統な男系男子が選ばれたことで、皇統は守られました。
一方の道鏡は、下野国に左遷され、その地で生涯を終えました。権力の絶頂から一気に失脚した彼の人生は、日本の歴史において「皇位を狙った僧侶」として異例の存在となりました。
歴史的意義―神道が守った皇統
道鏡事件の最大の意義は、神道の権威が皇統の正統性を守ったという点です。
八幡神は応神天皇を祀る神であり、皇室と直結する神格。その神が「皇位は天照大神の血を引く男系男子が継ぐべし」と告げたことで、皇位継承の原則が改めて神聖化されました。
以後、皇位は「神意によって守られるもの」という理解が広まっていきました。
和気清麻呂の後世での評価
清麻呂は後に「護王神社」(京都御所西)に祀られ、「皇統守護の神」として崇敬を受けるようになりました。
興味深いのは、後世の人々がこの事件を「ただの政治的抗争」とは捉えず、日本を日本たらしめる皇統の危機を救った出来事として記憶してきたことです。
和気清麻呂は忠臣として、道鏡は「皇位を脅かした野望の僧」として、歴史に位置づけられています。
まとめ
道鏡事件は、日本史上でも特異な「皇統断絶の危機」でした。
道鏡は僧侶として初めて天皇の座を狙った。
宇佐八幡の神託と和気清麻呂の忠義が、万世一系の原則を守った。
神道が皇統を支えた象徴的な事件となり、後世の皇室観にも大きな影響を与えた。
この事件を通じてわかるのは、皇位が単なる権力の座ではなく、天照大神から連なる神聖な男系の血統であるということです。
それを揺るがす動きがいかに危険であるかを、日本の歴史は雄弁に物語っています。

