「公共のため」と言われれば、誰も反対できない
国が何か事業を始めるとき、決まってこう説明されます。
「これは国民全体の利益のためです」
「公共性の高い事業です」
「社会全体の安心と安全を守ります」
“公共”という言葉には、強い説得力があります。
誰のためでもない、自分たちのためなのだと信じて、私たちは納得し、税金を払い続けてきました。
でも、現実の“公共”は、本当に私たちのために存在しているのでしょうか?
“公共事業”の正体とは?
公共事業というと、多くの人は道路、橋、堤防、学校、病院などを思い浮かべるでしょう。
しかし、実際にはその中に次のようなものも含まれています。
地元有力業者しか入札できない不透明な工事
利用者がほとんどいない大型施設(ハコモノ)
官僚OBが天下る外郭団体への委託事業
政治家の地元に集中する特定プロジェクト
表向きには「公共」でも、中身は“特定の誰か”のために設計された支出であることが少なくありません。
「国の支出先」は誰が決めているのか?
予算案をつくるのは財務省(官僚)
実施を提案するのは各省庁・地方自治体・議員
最終決定は国会(与党多数の力)
この流れの中で、市民の声が反映される場面は、ほとんどありません。
そして、「誰にとっての“公共”か」が曖昧なまま、利権と予算がセットで流れる仕組みができあがっているのです。
公共の名を借りた再分配のすり替え
本来、税金は「みんなから集めて、みんなに使う」ものでした。しかし今は、次のようなすり替えが起きています。
生活に困っている人を助ける ⇒政治家の地元や支援団体に予算を配分
教育・医療・福祉への投資 ⇒建設業界や広告代理店への発注
未来世代への投資 ⇒選挙前だけのバラマキ政策
つまり、“公共”とは言っても、支出の多くが「一部の政治的に有力な層」に集中しているのです。
巨大プロジェクトと天下りの関係
ある大型プロジェクトを例に見てみましょう。
官僚が設計・予算を確保
受注するのは特定のゼネコンやITベンダー
完成後の維持管理を、元官僚が天下った法人が受託
ここでは「公共の利益」という看板が掲げられていますが、実質的には「仕事と資金を回す仕組み」が目的化しているのです。
“あなたのため”という言葉のウラを読む
「公共」という言葉が出てきたとき、私たちは立ち止まって考える必要があります。
それは本当に、私たち全体のための事業なのか? それとも、一部の政治家や関係業者の利益のために、“公共”という言葉が使われているだけなのか?
税金の使い道に無関心でいると、“公共”が“偽りの正義”として使われ続けてしまいます。
「国の支出に口を出す」ことは民主主義の根幹
どこに、いくら、なぜ使われるのか
その結果、誰が得をし、誰が取り残されているのか
支出によって未来にどんな影響があるのか
これらを問い直すことこそが、税を払う側の当然の権利です。
“公共”という言葉に安心するのではなく、その実態を見ようとする姿勢が、この国のかたちを変える出発点になります。