政治の世界で用いられるレトリックの中でも、「恐怖」を利用するものは非常に強力です。
戦争、テロ、経済危機、そして自然災害。これらは人々に直接的な不安を与えるだけでなく、投票行動そのものを変える作用を持っています。
とりわけ選挙の局面では、恐怖を訴えるメッセージはしばしば「安定」や「現状維持」を強調する与党に有利に働きます。
本記事では、心理学や行動経済学の理論を踏まえながら、恐怖喚起がいかに選挙戦略として利用されてきたかを見ていきます。
恐怖が人を「変化より安定」に導く
前回の記事でも触れたように、人間は大きな不安を感じるとき、「変化」よりも「安定」を選びやすくなります。
これは、心理学的には恐怖喚起効果(fear appeal) によって説明されます。恐怖が提示されると、人はその不安に対処できる存在を求めます。
そして与党が「私たちこそが国民を守れる」と訴えれば、有権者はその言葉に安心を見出し、支持を固めやすくなるのです。
さらに行動経済学的には、現状維持バイアス(status quo bias) と 損失回避(loss aversion) が作用します。
「政権を交代させれば何か良いことがあるかもしれない」という期待よりも、「政権を変えて災害対応が混乱するかもしれない」という損失の恐怖の方が、強く人々の意思決定を支配するのです。
選挙演説に潜む「恐怖のキーワード」
実際の選挙演説や政権与党の発信を注意深く見ると、「恐怖喚起」にあたる表現が数多く散りばめられていることに気づきます。
「国難」
「非常時」
「有事」
「危機的状況」
「未曾有の試練」
こうした言葉は、客観的に見れば、必ずしも具体的なリスクの裏付けがあるわけではありません。
しかし、人々の心に「何か不安なことが迫っている」という感覚を呼び覚まし、心理的に「変化よりも今の秩序を維持したい」という方向に誘導するのです。
たとえば、仮に与党党首が「日本列島は地震の活動期に入っている。いつ大地震が起きてもおかしくない」と演説したとしましょう。
その直後に「私たち与党は防災対策を着実に進めてきた。政権を手放せば混乱が生じる」と結びつければ、有権者の心理は「やはり政権を変えるべきではない」と傾きやすくなるのです。
与党が有利になる構造
恐怖喚起は、なぜ野党よりも与党に有利に働くのでしょうか。
理由の一つは、与党が「すでに権力を持ち、国の安全保障や災害対応を担っている立場」にあるからです。
危機が強調されればされるほど、有権者は「新しい政権に任せるより、経験のある今の政権に任せた方が安心だ」と感じます。
これは政治心理学でいう 「恐怖→保守化効果」 に通じます。恐怖は人々の態度を保守的にし、「既存の秩序」や「今の権力者」への支持を強める傾向を生むのです。
野党が恐怖を訴える場合、それは「与党が国を危機にさらしている」という構図でなければ効果を持ちにくいのが現実です。
したがって「恐怖を利用する戦略」は本質的に与党向きの武器なのです。
実際の選挙での活用例
国内外を問わず、選挙戦で恐怖が利用された例は数多くあります。
冷戦期のアメリカでは、「ソ連の核の脅威」を背景に「強いリーダーシップ」を訴える候補が支持を集めました。
日本の選挙でも、大災害や周辺国の軍事的動向が話題になるとき、与党が「国難突破」「危機管理能力」を前面に出すことがあります。
経済危機の場面では、「野党に政権を任せれば混乱が広がる」といった言葉が繰り返され、結局は与党が勝利するケースも見られます。
これらはいずれも、恐怖が有権者を現状維持に向かわせる心理を巧みに突いた戦略だと言えるでしょう。
恐怖喚起戦略の限界
ただし、恐怖に訴える選挙戦略には限界もあります。恐怖ばかりを強調し続けると、有権者の心は「不安疲れ」を起こし、逆に「恐怖を煽るばかりで具体的な政策がない」と反発を招くこともあります。
また恐怖が現実のリスクと結びついていない場合、時間が経つにつれて「大げさだった」と見抜かれ、信頼を失う可能性もあります。
そのため恐怖喚起を成功させるには、恐怖の提示+具体的な解決策の提示がセットでなければなりません。
まとめ
選挙戦において恐怖は強力な武器です。
心理学の恐怖喚起効果
行動経済学の現状維持バイアス・損失回避
政治心理学の保守化効果
これらが相互に作用し、有権者を「変化より安定」「野党より与党」へと導きます。
とはいえ、恐怖喚起に依存しすぎる政治は、長期的には民主主義の健全性を損ねる危険もあるのです。