政治の世界では、しばしば有権者の「不安」や「恐怖」が投票行動に影響を与えることがあります。
たとえば、政権与党の党首が演説で「いつ大地震が発生してもおかしくない」と強調したとしましょう。
災害そのものは科学的に予測できない部分が大きいにもかかわらず、聴衆は「危険が迫っている」という印象を受けます。
そして、その直後に「私たち与党が責任を持って国民を守る」と語られれば、多くの人々が「変化より安定を」と考え、与党支持に傾く可能性が高まります。
この現象は単なる政治的な直感ではなく、心理学や行動経済学で説明されているメカニズムに裏打ちされています。
以下では、恐怖が人々を現状維持に導く心理プロセスをいくつかの学説から整理してみましょう。
恐怖喚起効果
まず基本となるのは「恐怖喚起効果」です。心理学では、脅威を強調することで人々の態度や行動を変えようとするメッセージを「恐怖喚起(fear appeal)」と呼びます。
健康キャンペーンで「喫煙すると肺がんのリスクが高まる」と強調するのもその一例です。
しかし、恐怖喚起の効果は一筋縄ではいきません。人は恐怖を感じるとき、その不安に対処できると信じれば行動を変えますが、逆に「どうせ何をしても無駄だ」と思うと、防衛的になり行動を避けたり、現状維持にとどまったりします。
与党党首が「大地震が迫っている」と訴える場合も、対処の方法が示されなければ、人々はただ不安を抱え込むだけです。
しかし「私たちが政権を維持してこそ備えられる」と付け加えられると、恐怖は「与党を選べば安心できる」という心理的結論につながりやすくなるのです。
現状維持バイアス
次に重要なのが、行動経済学で広く知られる「現状維持バイアス(Status Quo Bias)」です。人は合理的に考えればより良い選択を取るべきなのに、変化によるリスクを過大評価し、今の状態をそのまま維持しようとする傾向を持っています。
災害リスクが強調されると、「もし政権交代が起こったら混乱するのではないか」「新しい政権では災害に十分対応できないのではないか」といった想像が膨らみます。
結果として「とりあえず今の政権を続けておいた方が無難だ」という心理に傾くのです。これは選挙において非常に強力な効果を持ち、変化を求める野党よりも、安定を掲げる与党に有利に働きます。
損失回避バイアス
現状維持バイアス(Loss Aversion)と表裏一体の概念が「損失回避」です。
カーネマンとトヴェルスキーが行動経済学の実験で示したように、人は「得られる利益の喜び」よりも「失うことへの痛み」を強く感じる傾向があります。
「政権を変えたらもっと良くなるかもしれない」という期待はあっても、それが不確実である以上、「もし政権交代で災害対応が遅れ、被害が拡大したら取り返しがつかない」という恐怖の方が強く作用します。
つまり恐怖を強調することで、得をする可能性よりも損を避けたいという心理が前面に出て、人々は与党支持に傾くのです。
テロマネジメント理論
心理学には「テロマネジメント理論(Terror Management Theory)」という興味深い理論もあります。
これは、人間が死や大災害といった“実存的恐怖”に直面したとき、文化的価値観や社会秩序にしがみつく傾向があることを説明します。
たとえば、テロ事件や大規模災害の後に、人々が保守的政策や権威的リーダーを支持しやすくなることが、実証研究で確認されています。
これは「不安な状況では、既存の秩序や伝統に従った方が安心できる」という心理反応の一つです。大地震発言も、まさに有権者に「死の恐怖」を想起させ、既存の権力にしがみつかせる効果を持つと考えられます。
恐怖と保守化
政治心理学の分野では、「恐怖や不安は人々を保守的にする」という実証研究が積み重ねられています。
テロ事件や戦争が起こった直後に、保守政党や強力な指導者への支持が高まる現象は、世界各国で観察されています。学術的には「モーティベーテッド・コンザーバティズム(motivated conservatism)」と呼ばれることもあります。
つまり、恐怖喚起は単なる短期的な心理反応ではなく、人々の政治的態度全体を「変化より安定」「改革より秩序」といった方向へとシフトさせる力を持つのです。
まとめ―恐怖は現状維持を強める
以上のように、政権与党の党首が「大地震がいつ起きてもおかしくない」と訴えることで、有権者が安定志向を強める現象は、複数の学説で説明可能です。
恐怖喚起効果によって、不安は「与党に任せれば安心」という結論に結びつけられる
現状維持バイアスと損失回避バイアスにより、人々は変化よりも今の体制に留まる方を選びやすくなる
テロマネジメント理論が示すように、死や災害の恐怖は人を既存の秩序へと回帰させる
政治心理学の研究でも、不安は保守的態度を強めることが確認されている
つまり「大地震発言」は、単なる言葉の脅しではなく、心理的に有効な戦略として働く可能性が高いのです。