私たちは、つい「強くなりたい」「負けたくない」と思ってしまいます。
誰にも頼らず、自分の力で道を切り開ける人こそ偉い。そう信じて、頑張り続けている人も多いでしょう。
でも、人生には、自分の無力さに打ちのめされるような瞬間があります。病気、喪失、失敗、人間関係のつまずき――
そんなときに、力んでもどうにもならない現実の前で、「弱さ」を認めざるをえなくなるのです。
けれども、実はそこにこそ、本当の力の入り口があるのだと、聖書も、東洋の知恵も、私たちに語りかけてきます。
「わたしの力は、弱いところに完全に現れる」
パウロは、自分が抱えていた苦しみ(「とげ」)について、何度も神に取り去ってほしいと願いました。
しかし、神はこう答えられたのです。
「わたしの恵みは、あなたに対して十分である。わたしの力は、弱いところに完全に現れるのである」――コリント人への第二の手紙 12:9
この言葉を受けて、パウロはこう続けます。
「だから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう」
この告白には、深い霊的逆説があります。
人は自分の限界を知り、弱さを認めたときにこそ、神の恵みを体験する準備が整うのです。
東洋にも息づく「弱さの力」
この真理は、東洋の古典にも共通して見出されます。たとえば中国の『老子』にはこうあります。
「天下の至柔は、天下の至剛を制す」
(最も柔らかいものは、最も強いものを打ち破る)
また、日本のことわざには「風に吹かれても折れぬ柳」や、「柔よく剛を制す」といった表現があります。
これは、力で押し返すよりも、受け流す柔らかさ、身を低くする謙遜にこそ、真の強さがあるという教えです。
竹がしなっても折れないように、心がしなやかな人は、逆境の中でも折れずに生き抜く――
この思想は、イエスの語る「柔和な者は地を受けつぐ」という祝福にも通じるのです。
弱い者が選ばれる
聖書には、神があえて「弱い者」「無力に見える者」を選ばれるという逆転の視点が何度も登場します。
「強い者をはずかしめるために、世の弱い者を選ばれた」――コリント人への第一の手紙 1:27
神は、自己主張の強い者ではなく、自らを低くする者を用いられます。
また、信仰の英雄たちは「弱さのうちに力を得た」とヘブル人への手紙には記されています(11:34)。
キリストの「弱さ」こそ、救いの力
そして何よりも、イエス・キリストご自身が、へりくだりと弱さの道を選ばれました。
「自分を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」――ピリピ人への手紙 2:8
十字架は、人間的には「敗北」の象徴です。しかし、そこからこそ神の救いが全世界に広がったのです。
これは、まさに「弱さの中にこそ、力がある」という神の方法です。
終わりに:弱さを手放さないでください
もしかすると、あなたも今、何かしらの「弱さ」と向き合っているかもしれません。
それは苦しく、つらいことかもしれません。
でも、その中にこそ、神が働かれる余地があります。
あなたが「もうダメだ」と思うところから、
神は「ここから始めよう」と言ってくださるのです。
弱さを抱えたままで、主のもとへ進みましょう。
そこには、あなたが想像もしなかったような神の力と恵みが、きっと待っています。