私たち人間は、誰しも弱さを抱えています。
体の弱さ、心の弱さ、意志の弱さ。
時には、自分自身にさえ失望することもあるかもしれません。
しかし、聖書ははっきりと告げています。
「弱さこそが、神の力が現れる場所だ」と。
弱さにこそ、神の力が宿る
使徒パウロは、自らの弱さを隠しませんでした。
彼はこう記しています。
しかし主は言われた、「わたしの恵みは、あなたに対して足りる。わたしの力は、弱さのうちに全うされるのである」。
(第二コリント12章9節)
パウロは、「むしろ自分の弱さを誇ろう」とさえ言います。
なぜなら、自分の強さではなく、キリストの力が、
弱さの中でこそ輝くからです。
弱さを隠さず、弱さの中に神の力を見出す──
これが、信仰者に与えられた逆説的な祝福です。
聖霊は、弱さの中で助ける
聖霊は、単なる「力の象徴」ではありません。
聖霊は、弱い私たちを助ける助け主です。
御霊も同様に、弱いわたしたちを助けて下さる。
わたしたちは、どのように祈ったらよいかを知らないが、
御霊自ら、言葉に表せない深いうめきをもって、
わたしたちのためにとりなして下さる。
(ローマ8章26節)
祈る言葉すら見つからないとき、聖霊が「深いうめき」をもって、私たちに代わって祈ってくださるのです。
聖霊は、私たちの内に住み、
力を与え、愛を教え、慎みを促します(Ⅱテモテ1章7節)。
弱さの中で、聖霊はただ「支える」のではなく、
私たち自身を神の力で満たしてくださるのです。
土の器に宿る宝
私たちは決して完璧な存在ではありません。
むしろ聖書は、私たちを「土の器」になぞらえます。
しかし、この宝を、わたしたちは土の器の中に持っている。
それは、このすぐれた力が神のものであって、
わたしたちから出たものでないことが、明らかにされるためである。
(第二コリント4章7節)
もろく、欠けやすい「器」だからこそ、その中に宿る「宝(神の力、神の恵み)」は、いっそう輝くのです。
私たちの弱さは、神が働くための「余白」。
神は、強さではなく、隙間を通してご自身を現されます。
権力によらず、御霊によって
神の働きは、私たち自身の能力や努力によるのではありません。
「これは、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって成し遂げられる」(ゼカリヤ書4章6節)
神の御霊──すなわち聖霊が働くとき、人間の弱さはもはや妨げではありません。
むしろ、神の栄光が最もよく現れる舞台となるのです。
弱さを恐れず、聖霊にゆだねる
弱い自分を責める必要はありません。
聖霊は、その弱さを担い、祈り、導き、力を与えてくださいます。
自分の力に頼らず、聖霊に心を開き、すべてをゆだねること。それが、真の強さへの道です。
おわりに
もし今、あなたが自分の弱さに悩んでいるなら、それは、神の力があなたに働こうとしているしるしかもしれません。
弱さを恐れず、聖霊に助けを求めてみてください。
きっとそこに、あなたを超えた大いなる力と、深い慰めが与えられるでしょう。