「仏に逢ったら、仏を殺せ」―禅が私たちに教えていること

雑学
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「仏に逢わば仏を殺せ、祖に逢わば祖を殺せ」
― 臨済義玄(りんざい ぎげん)

この言葉を初めて聞いたとき、あなたはどんな印象を受けるでしょうか?
「えっ、仏を殺す? そんなこと言っていいの?」と、驚かれるかもしれません。

でも、これは単なる暴言でも、信仰を否定する言葉でもありません。
むしろ、禅仏教の核心に迫る、深い真理を含んだメッセージなのです。

偶像を壊せ。執着を捨てよ

「仏に逢ったら、仏を殺せ」とは、
私たちが心の中で作り上げた“理想の仏”や“聖なる存在”を疑え、ということです。

仏の教えに触れることで感動し、救いを感じる。
それ自体は尊い体験ですが、もしそのイメージにすがり続けてしまったら、
それはかえって“自由”を妨げる枷になってしまう――禅はそう語ります。

禅がめざすのは、あくまで「自らの本性に目覚めること」です。
外に神を求めるのではなく、内に“悟り”を見出す道。

だからこそ、「仏」に出会っても、それが“とらわれ”になった瞬間、
それを「殺せ(手放せ)」と教えるのです。

 

師匠も、言葉も、教えも通過点にすぎない

この教えには、「祖に逢わば祖を殺せ」という続きがあります。
ここでいう「祖」とは、仏教の祖師――つまり師匠のような存在です。

どんなに優れた師であっても、
あなたが本当に自分自身で悟りに至るまでは、
師の存在すら超えなければならない。

教えも、言葉も、方法論も、
すべては通過点であって、ゴールではない。

ゴールは、あくまでも―「あなた自身が目覚めること」です。

 

現代に生きる私たちへのメッセージ

この禅の教えは、
“仏”という宗教的存在を超えて、現代にも通じる問いを投げかけています。

「あなたが“絶対”だと信じているものに、すがりすぎていないか?」

「誰かの価値観に依存して、自分の軸を見失っていないか?」

「“正解”に見えるものが、実はあなたを縛っていないか?」

人は、ときに“正しさ”や“理想像”に縛られ、
自分の自由な感性や判断を見失ってしまいます。

でも本当に大切なのは、
誰かが作った理想ではなく、あなた自身の内側にある真実なのかもしれません。

 

まとめ:すべては「心」から始まる

禅の教えにあるように――

一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)
― すべては心が作り出すものである(『華厳経』)

仏も、理想も、正解も、
それが“とらわれ”となるなら、いったんそれを「殺す」勇気を持ってみる。
するとその先に、本当の自由な自分が現れてくるかもしれません。

あなたにとっての「仏」は、今、どんな姿をしていますか?

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