平凡と悟りの逆説― 聖書と東洋思想が語る「賢者が悟れば、ふたたび平凡となる」

雑学
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ある言葉があります。

「平凡な人が神様と一つになったり、悟りを得たりすれば賢者になり、賢者が悟りを得たり、神様と一体になったりすれば平凡な人になる」

一見逆説的ですが、実はこの言葉には、深い真理が込められています。

それは、“悟った者は何者でもない者として、静かにこの世界にとどまる”という東西の叡智に通じています。

聖書が語る「高ぶる者は低くされる」という逆説

イエスはこう語りました。

「おのれを高くする者は低くされ、おのれを低くする者は高くされる。」――ルカによる福音書 14:11(口語訳)

聖書の世界では、人が自分を捨て、へりくだるときにこそ、神に近づくとされます。

悟りや神との合一とは、何かを「得る」ことではなく、何も求めず、何者でもなくなることなのかもしれません。

神であったイエスが、人となったという逆説

キリスト教最大の逆説は、神の子が人としてこの地に来られたという出来事にあります。

「キリストは、神のかたちであられたが、…おのれをむなしくして、しもべのかたちをとり、人間の姿になり…」
――ピリピ人への手紙 2:6–7(口語訳)

ここには、神が賢者として顕れるどころか、しもべとして“ただの人”になったという謙遜の極みが示されています。

東洋思想における「無の境地」

● 禅の逆説:「仏に逢うては仏を殺せ」
悟りを開いた者は、仏そのものをも手放す。

それが、白隠禅師などが伝えてきた禅の教えです。最終的にたどり着くのは、悟りすら超えた、ただの人としての存在です。

● 『老子』の思想:「大道廃れて仁義あり」
道(タオ)が完全に実践されているとき、それは特別に見えるものではなく、日常の中に溶け込んでいるもの。

「上善は水の如し」というように、最も高い徳は、目立たず、へりくだり、低いところに宿るのです。

最後に──悟りとは「ただの人」になること?

「賢者が悟れば、平凡になる」。

この言葉は、本当の悟りとは“平凡さ”に回帰することである、という逆説的な真理を私たちに教えてくれます。

それは、自我を手放した者のたたずまい。
何かを“得た”のではなく、すべてを“手放した”がゆえの静けさ。

神に近づいた人は、誰よりも人間らしくなる。
悟りを得た者は、誰よりも自然な日常を生きる。

それこそが、本当の知恵のある人=聖者の姿なのではないでしょうか。

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